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布施の心

 投稿者:安達(釋常念秀覚)  投稿日:2008年 2月 7日(木)03時26分33秒
  皆様お変わりございませんか、久しぶりの書き込みです。

相変わらず不景気と感じる日々が続いてますが、なんとも気が滅入ってきますね。

でもこの人生も、あなたや私の人生なのですよね。
そのあなただけの人生をどのように過せば、幸せな人生にする事が出来るのか、
その一つに「損して得取れ」という言葉があります。

また一つに「出入り口」という言葉があります、「入り出口」ではありませんね、
先ず出すことが必要です。
何を出すのか?  あなたの「心」です。

ではどのように出せば、道が広がってくるのか。
出すことを仏教では「布施」と言います、「布施」とは万遍なく大勢の人に施しをすることです。

今、世間で行われている難民救済支援物資、或いは支援金を送っています、これも布施です。
ではお金が貧しい人には出来ないのか?  いえいえ違います。
お釈迦様が説かれた布施の行とは、金銭物質の有る人はそれも良いことですが、
金銭の布施だけでなく、心で態度でする布施を説かれています。
これを「無財の七施」と言います。
必ずあなたにも出来ます、どれ一つでも結構です、明日とは言わず、今日只今より始めてみませんか。

1、身施・・・ 肉体による奉仕、隣の家の前まで掃除してあげる、横断歩道で年寄りをかばって渡してあげる、障害のある人をかばってあげる、身体でできる奉仕。

2、心施・・・ 我が子、吾が親が怪我をしたような、いたわりの心で人に接する。

3、眼施(げんせ)・・・優しいまなざしで見ること、そこにいる全ての人の心が和やかとなる。

4、和顔施(わがんせ)・・・ 柔和な笑顔を絶やさないこと。

5、言施(ごんせ)・・・ 思いやりのこもった暖かい言葉をかけること。

6、牀座施(しょうざせ)・・・自分の席をゆずること。

7、房舎施(ぼうしゃせ)我が家を一夜の宿に貸すこと。

取り立てて難しいことではないと思います(7番を除いて)一つづつで結構です、
やってみませんか?
 
 

生と死

 投稿者:安達(釋常念秀覚)  投稿日:2008年 1月13日(日)17時44分32秒
  人間にとって未来に確かなものは何一つありません。
今夜どんな出来事が起きるかわかりません。
いや一時間後に誰に会うやら、どんな電話がかかってくるかもわかりません。

そんな中で一つ、未来に確かなことがあります。
それは自分が死ぬのだということであります。それも「もしや死んだらどうしよう」などというあやふやな事柄ではありません。
こういう話をすると「縁起でもない」とたいていの人は嫌がります。嫌がって「死」を思わないところに、実は深い迷いがあるとお釈迦さまは教えておられます。

私たちは生の終りを死だと思っています。
誕生日を始点とし、線を引いてそれが終った点を終点として、その線の引かれた長さを人生とか生存とかいっています。
そして人生八十年の時代がきたなどとうそぶいています。
いづれは死ぬとまだ遠い先のこととしか思わない。そのために、生きている今をどんなにおそまつにしてしまっていることか。
とりかえしのつかぬ悔いに泣かねばならぬことになってしまうかを、よくよく考えよと仏様は教えて下さっているのです。
臨終は生活の終りに来るものではありません。臨終はいつも生活と一緒にいるのです。生の裏が死であって、終りが死ではありません。人間とは「いつかは死ぬ」ではなく、「本来死であるべきものが今日も生かされている」のです。
 

独生独死 独去独来

 投稿者:安達(釋常念秀覚)  投稿日:2007年12月27日(木)04時46分4秒
  (独り生じ独り死し 独り去り独り来る)

「人はひとりで生まれ、ひとりで死に、ひとりで去り、ひとりで来るのだ。
苦しみの人生を得たり、幸福な人生を得たりする。行う者自身がその報いを受けるのであり、代わりに受けてくれる者などありはしない」

これは無量寿経(浄土三部経)の一文です。
人間はこの世に生まれてくるときはみんなひとりです。
やがて生涯を終えて死んでいく時もまったくのひとりぼっちです。
しかも一糸まとわぬ裸で生まれ、この世で成した業績や財産も死ぬときは全てこの世に残していく。
あの世では不必要なものだから持っていきたくても許されません。

人は生来孤独です。どんなに苦しくとも、援助はあっても誰も身代わりになって
くれません。
生も死も身代わりができないように、どんな場合も報いはその人を除いて
他人が受けることが出来ません。

人は孤独です。ひとりで死の旅に出ます。寂しい旅です。
最愛の妻子でもお供してくれません。
しかし旅立ちはひとりであっても、阿弥陀さまは暖かく出迎えてくれます。
もうそこは孤独ではありません。
そこはもう極楽浄土なのです。
 

輪廻

 投稿者:安達(釋常念秀覚)  投稿日:2007年12月11日(火)09時01分39秒
  迷いの中にあってさまよっているということを、仏教では流転輪廻と言います。
輪廻とは生まれ変わりのことだと思われがちですけど、死んで、そして生まれ変わるということではなくて、人間が生活をしている中で現れる世界、心境が変わっていくということなんです。
その世界を六道と言い、その六道を転々と迷っているから六道輪廻と言うわけです。で、六道とは、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天の六つのことです。

地獄とは他の人との関係が持てないこと。ある人は「言葉が通じ合わない世界が地獄だ」と言われました。言葉が通じ合わなければ、暗闇の世界で独りぼっちです。

餓鬼とはいつも空腹の状態で満足することがないこと。人間の欲望というのは限りがありません。これでいいということがなく、きりがない。

畜生というのは主体性がないこと。つまり、言われないと何もできない、言われたことしかできないということです。畜生というと家畜を指しますが、えさを与えれば食べ、鞭で追えば動く。自らを省みることがないから、恥じるということもない。それが畜生です。

修羅とはいつもいがみあって折り合うことがないこと。争いの世界ですね。修羅場という言葉があります。自分は正しい、相手が間違っているということをお互いが主張してると、行き着く先は殺し合いになってしまいます。

人間とは関係の中でしか生きられない存在だということ。人という文字の起こりは、人と人とがもたれかかっている状態だと言うでしょう。そして、人間とは人と人との間ということで、二人以上の関係を指した言葉です。世間体とか人目を気にし、社会とか世間のしがらみに縛られて、窮屈な世界を生きるしかないのが人間です。

天とは、他人を省みることがなくわがまま勝手に生きているということ。有頂天という言葉がありますが、まさに舞い上がった状態で足元やまわりが見えない状態です。雲の上を歩いていると言ったほうがいいでしょうかね。

そして、有頂天から一気に奈落の底、つまり地獄へ、ということを我々はくり返しているわけです。私たちはこうして六道の世界のレールの上を、ぐるぐる回りながら生きている、ということが輪廻転生なわけです。
 

別れることの悲しみ

 投稿者:安達(釋常念秀覚)  投稿日:2007年12月 9日(日)21時59分9秒
  会うは別れのはじめといいます。
深い縁によってめぐり会うことの出来た者も、いつかは必ず別れなければいけません。

愛情によって結ばれた新婚早々の夫婦も、不慮の事故によって最愛の相手を失うこともあるでしょう。
またかわいいわが子に先立たれることもあるでしょう。
それは本当に悲しいことです。
でもそれは厳しい人生の現実であり、人生そのものの苦悩でもあります。
泣くもよし、なげくもよい。
しかし、その悲しみを無駄に終わらせてはならないと思います。
その悲しみの中から、何かを悟ってゆくことが大切なのではないでしょうか。

先立っていった父母がどこで迷っているだろうかと、なげき悲しむその中から、実はその父母こそこの私を導いて、仏教に近づかせて下さったのであり、私の導きの親であり、善知識であったのだと気づかせられる時、悲しみはやがて感謝の気持ちに転じていくのでしょう。

そしてそこにこそ、亡くなっていった父母が、永遠に私の心の中に生き続けることでしょう。
 

十 悪

 投稿者:安達(釋常念秀覚)  投稿日:2007年12月 4日(火)15時55分13秒
編集済
  人は不意に虫が目の中に飛び込んできたとき、その瞬間に瞼を閉じて防御します。
このような経験は多分みんなあるでしょう。

もし何者かが刃を持ってあなたを襲ったら、おそらく果敢に立ち向かうでしょう。
人間のみならず、生き物は本能的に自分を守ろうとする働きを持っています。

ところが、自分が持っている刃は止めるすべなく振ってしまう。
人間はこの刃を十個持っています。
これを十悪というのです。

身のなせる悪には殺生、盗み、よこしまな愛欲の三つ。
口のなせる悪には偽り、無駄口、悪口、二枚舌の四つ。
意のなせる悪には貪り、怒り、愚かの三つ。

外からの刃(悪)には立ち向かって防ぐことが出来ます。
しかし、自分の中から出る刃(悪)を押さえることは困難なことなのです。
それは人間の愚かさがなせるものです。

愚かな者はうそを言い悪口を言う。
愚かなるがゆえに盗みをする。
愚かな者ほど腹を立てる。

十悪の全ては人間の愚かさが基となっていると言われています。
 

福の神と貧乏神

 投稿者:安達(釋常念秀覚)  投稿日:2007年12月 2日(日)04時03分27秒
  ある家に、美しく着飾った娘さんが訪ねてきました。
家の主人が、「どなたでしょうか。」
とたずねました。その娘さんは、
「わたしは人々に富と幸せを与える福の神です」と答えました。
主人は大変喜んでその娘を家に上げ、手厚くもてなしました。
すると、すぐ後からボロをまとったとっても醜い娘さんがやってきました。
主人がその娘に、
「あなたはどなたさまでしょうか。」
とたずねると、
「わたしは見てのとおり、貧しい貧しい、しかもとっても醜い娘です。
みんな私のことを貧乏神と呼んでいるようです。」
と答えました。 主人はびっくり仰天、慌てふためいて、
「申し訳ありませんが、あなたには用はありません。お引き取りください。」
といって、無理やり戸を閉めその娘さんを追い出そうとしました。
すると醜い娘さんは、「先ほどの福の神はわたしのたった一人の大切な姉です。
わたしたち姉妹はいまだかっていちども離れたことはありません。もしわたしを追い出したら、姉もいなくなるでしょう。」
といって立ち去りました。
ほっと一息ついて主人は部屋に戻るとやはり福の神の姿はどこにも見当たりませんでした。

これは仏教説話の一節です。皆さんはこの話をどう受けとめますか?
 

疲れ解消法

 投稿者:安達(釋常念秀覚)  投稿日:2007年11月22日(木)05時53分35秒
  毎日疲れがどんどん溜まっていくような感じで
時には気分転換が必要ですね!
ちょっとした疲れ解消法を伝授しましょう。

自宅へ帰った時
●すぐ着替えて、すべて身に付けているものを取る。
●「どっこらしょ」と言ってイスに座る。
だらしないほどリラックスした姿勢になるといいそうです。
●そして何度も息を吸ったり吐いたりを繰り返す。これは一日の緊張をとってくれるそうです。
●照明はあまり明るくない方がいいそうです。
●肩の力をぬいて、目を閉じる。
これを数十分でもやるといいそうです。
力をぬくというのは、手や頭 それぞれに力が入っていますから、
だらーとした姿勢を取るというのは、力が下に落ちていくようでいいそうです。
 

六歌仙

 投稿者:安達(釋常念秀覚)  投稿日:2007年11月 8日(木)00時16分32秒
  Blue-Moonでは六歌仙という銘柄の日本酒を出しているのですが、
江戸時代の禅のお坊さんが書いた「老人六歌仙」というものがあります。

しわがよる ほくろができる 腰曲がる
頭がはげる ひげ白くなる

手は振るう 足はよろつく 歯は抜ける
耳は聞こえず 目はうとくなる

身に添うは 頭巾 襟巻 杖 目鏡
しびん 孫の手

聞きたがる 死にたくない 淋しがる
心は曲がる 欲深くなる

くどくなる 気短かになる 愚痴になる
出しゃばりたがる 世話をやきたがる
子供を誉める
自慢話しに人はいやがる

 平安時代の六歌仙をもじったものですけれど、老人をからかった歌ではなくて、歳を取るということを、よくよく考えてみましょうという歌なのです。

『聞きたがる』なんでも聞きたがるのですよ。「さっきの電話、誰から? 何の用だったの? どこ行くの? なにしに行くの?」 よくありますね。

『死にたくない』。まあ、口ではたいてい、そうは言いませんけどね。「私は、もういつお迎えがきても」なんて言っているのですが、ちょっとでも身体の調子が悪いとなると、すぐに医者にとんでいく。
「何ともないですよ」なんて言われようものなら、「あれはヤブだ」と、次々に医者のはしごをする。「ちょっと血圧が高めですから、お薬を出しておきますね」なんて言ってもらうと、もう安心してしまって、もらってきた薬などほったらかし。

『淋しがる、心は曲がる、欲深くなる』。これも、よくあることですね。「息子が冷たい、孫が声をかけてくれない。あれは嫁が悪いからだ。結局、頼りになるのは金だけ」。
そんな思いでいるものだから、ちょっと優しくしてくれる人にだまされて、金をなくしてしまったりする。

老人が嫌がられるのは、身体が不自由になるからではないのですよ。そうではなくて、身体が不自由になる分、「わがまま」が強くなるからです。

自分で出来なくなったことは、人に頼ろうとする。ところが人は、そうそう自分の思うようには動いてくれません。そこで、「あれをしてくれない、これをしてくれない」と言うようになる。

そんな老人を「くれない族」というそうです。「私に話してくれない」とか、「私の気持ちが分かってくれない」とか、「くれない、くれない」と言っている自分に気づいたら、要注意です。

自分の姿はなかなか見えないものですから、「人のふり見て、我がふり直せ」と言いますが、ふりだけ直そうとしてもダメなのです。心が変わっていないと、すぐに地が出てしまいます。
私たちは、「我が身が可愛い」ものですから、何でも自分の思い通りにしたいのです。それで、「私が、私が」と、「私」を前に押し出して「わがまま」になるものですが、もともと、この世は、思い通りにならないものなのです。

私たちは、思い通りにならないものを、思い通りにしようとするから、苦しいのです。「私が、私が」と、「私」を握りしめているから、苦しくて仕方がないのです。こころ安らかに生きたいと思うのなら、その手を緩めたらよいのですよ。
「私が、私が」と、「私」を握りしめている手を緩めて、楽になりましょう。
 

ありがとうございます

 投稿者:安達  投稿日:2007年10月11日(木)18時28分47秒
  RYOさん、書き込みありがとうございました。
実際問題その通りかと思います。
Blue-MOONでは路上ミュージシャンもマンスリーを含め、
参加してもらうことも多いですが、甘く考えを持った方も
多いのは事実ですね。
根性なしとでもいったらいいのでしょうか、集客が厳しいとか
なんだとか理由をつけ、辞めてしまう方もいますね。
終いには音楽活動を休ししますとか・・
私に言わせれば、今までは活動してたのかっていう話しですよ。
努力や修行は必要なことで、始めっからなんていうのは稀なことですからね!
路上っていうのも一つの方法だと思いますが、目的を持って(ステップアップできるもの)
うまく利用してもらいたいと思いますね。
上を目指すなら、ただ路上で大声で歌っていても北海道にいる限り
難しいと思うし、それでもいいのならただの自己満足ですかね~
中途半端過ぎます。
唄も人間の中身ももっと勉強するべきだなぁ
誤解があると困りますが、全ての方がそうだとは思っていません。
本当に頑張ってる方もいるのも事実ですから。
 

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